昔むかし、玉川上水のほとりのある袋小路の古ぼけたアパートに、名もない痩せこけた若者が住んでおった。
ある日、若者の友人、「社長の息子」が訪ねてきた。「社長の息子」はその貧乏臭いキッチンに、たくさんのスパイスが並んでいるのに気付いた。とりとめもない会話の末、食事時となり、「社長の息子」に食事をふるまった。それは安っぽい皿に盛られたカレーライスだったが、その旨かったことと言ったら!
じっくりと熟成したような、それでいてフルーティなソースの中に、とろけそうに煮込まれたポークとキャロットが泳ぎ、そして何より深くかぐわしい香りのハーモニー・・。
「社長の息子」は彼を「カレーの天才」と呼んだ。
それからしばらくして、「社長の息子」の家で恒例の酒盛り&ジャムセッションが行われている時、S&Gのスカボローフェアが唄われた。
パセリ・セージ・ローズマリー&タイム・・・パセリは判るが、その他の3つはいったい何?と言う話題になる。
「社長の息子」は、「野菜じゃないか?」と言った。
「風のギタリスト」が、「酒の名前じゃないか?」と言った。
若者は珍しく自信に満ちた口調で、こう答えた。
「それは全てスパイス(というかハーブ)だ」
それぞれのスパイス(というかハーブ)について説明する若者を、人はみな「ミスター・スパイス」と呼ぶようになった。
それからというもの、いつも袋小路のアパートに隠って滅多に人前に現れない「ミスター・スパイス」に、様々な噂が乱れ飛ぶ。
「社長の息子」は、「ある日あいつの部屋をカギ穴から覗いたら、奴は宙に浮いていた」と友人達に吹聴してまわった。
もちろんただの貧乏な若者である「ミスター・スパイス」にそんな能力があるわけもなく、旨いカレーを作る以外は取り立ててなにもできない彼は、ごく普通に結婚し、ごく普通な人生を送っている。
ただひとつだけちがった事は、奥様は料理苦手女だったのです。
|